世の中には仕事ができる人と、人並みにできる人と、あまりできない人がいる。
ちょっとアバウトな括りだと言われそうだが、私の場合たいていこの3つの分類で不自由はしない。
仕事のできる人というのは、およそ2割いると思ってよい。
5人いれば一人は優秀ということだ。
だから、仕事を誰かに頼む場合、この仕事ができる人にあたれば本当にラッキーなのだが、最初は、仕事ができる人と、人並みにできる人の区別がなかなかつかない。
しばらくつきあってみて初めて気づくのだ。
ああ、この人は、自分では優秀だと思っているようだが、仕事ができるというタイプではないな、と。
仕事ができる人のメルクマールは、その人の言葉や、実績や、理想ではない。
極めてシンプルだ。
仕事のこなし方、段取りのスムーズさ、これにつきる。
つまり、抽象的なものではなく、きわめて現実的なもの、すなわち、その人の動きそのものというわけだ。
知識を多く持っているに越したことはないが、その知識が常に行動とシンクロしているかどうか。
すぐには役に立たない知識とか、今日の新聞に何が載っていたとかにやたら言及する人がいて、それを知っていることが優秀さの証なんて思っていたりする。
その知識が、次の段階で何らかのアクションを誘起させるものであること。
それこそが、本当の知識だと私は思っている。(ただし、仕事上に限ってと当面言っておく)
仕事ができる人が上司だったりすると、部下は大変楽である。
部下が働きやすいような段取りを組んでくれ、たとえそれが簡単にはできないことであっても、大丈夫、君ならやれるなどと叱咤激励してくれるはず。
残念ながら、私は20年間のサラリーマン生活の間、そんな理想的な上司にはめぐり合えなかった。
辛うじて、まあまあ仕事ができる人ではあるな、と思った人が一人いたが、その人の仕事人生は結局中途半端に終ってしまった。
やはり50を過ぎて、仕事ができる人を続けるというのは、相当困難な作業なのであろう。
上司と言えば、今は違う放送局の役員をされている方がいて、一時期、私の上司をされていたのだが、この人は自分がイニシアチブをとっておられた仕事は見事な内容のものだったのだが、そうでない場合は、ちょっと我が儘勝手だな、と思うことが多かった。
私は、確かに扱いにくい部下だったろうが、自分の言う通りになる連中ばかりでないと、仕事が円滑にできないと思ってしまうのでは、ちょっと困り者ではないかと、私は思っていたものだ。
ま、扱いにくい私を自分の思うように動かしてやるという決意に燃えていたのかもしれない。
お前なんかになめられてたまるか、という意志が、不快な命令となって、よく私に負い被さってきたものだった。
口喧嘩なんて、しょっちゅうだったかもしれない。
でもね、私はこの人の私に対する態度は本当に承服しかねたけど、その人の仕事の質にはいつも敬意を抱いていたんですよ、嘘じゃなくて。
今の望み、とにかく部下に、私を見事に補完できる人間を持ちたい、ということ。
私ができないことを苦もなくやってしまい、次の問題はこれですよ、と適格に指摘してくれる部下。
ついでに、それを言葉だけでなく、文章にし、グラフにし、わかりやすいレイアウトを作ってくれる。
そう、言葉だけじゃなく、動きもシンクロしてくれる部下。
行動なき理論は死、なんて良く言うではないか。(旧全共闘世代のたわ言かもしれないが)
家来諸君、いっそうの奮励努力を今後ともお願いしたいところである。
世の中、理想通りには行かないけど、自分が少しでも理想に近づいているかどうか、日々検証していかないといけないと思っている、安部邦雄、偉そうに言ってすんませんな、segawax先生