大阪を離れて、もう14年になる。
元々、大阪を出て東京に行こうとは少しも思わなかった。
東京に出ないと、俺のやりたいことができないとはとても思えなかった。
東京は時々仕事に行けばよいのだ。
東京に住所を移さないと出来ない仕事など俺には思い浮かばない。
ラジオのディレクターだったから、東京は十分刺激的な町であることは確かだった。
大阪にはないものも多いし、アーチストのほとんどが東京にいた。
それでも、アーチストに毎日会うわけでもない。
どのアーチストともつきあいたいなんて気持ちは少しもない。
私はミーハーではなかったから、アイドルにもタレントさんにも近づきたい願望は希薄だった。
ディレクターやプロデューサーという仕事柄、結局そんな機会はいくらでもその後あったが、私は普通の人と普通に話をするのが好きだった。
ミーハーの人たちとは、心は通いあうことはなかった。
その分、クールに業界を見ることができたのは確かだ。
今の私は、もう音楽業界の人間ではない。
放送界の人間といえるかどうかも、最近は疑問だ。
たまにそんな話があって、ちょっとした手伝いは今でもするのだが、やはりルーチンに仕事をしない限り、その業界の人間と意識を共有することは難しい。
だから、私とつきあってくれる業界の人たちは、結果的に昔の私と話しているわけだ。
昔の私に話したように、今の私に話しかけてくるのだろう。
時々、あれ?って顔をする人もいる。
何か、昔みたいに話が通じない?
仕方がないことだ。
なにしろ、今の私は業界人のライフスタイルをほとんど忘れてしまっている。
ああ、今はそんな風に考えるのか、そんな風に対応するのか、業界人と話ながら、私は自分がもうその世界と隔絶している存在であることを気づかされるのだ。
では、今ここにいる自分は、いったいどんな自分なのだろう。
過去の仲間達がイメージしている私と、今ここにいる私はどう違うのか。
会社を経営し、インターネットに親和性を感じ、ベンチャービジネスの真似事に自分の大半の時間を使っている。
そして、あれほど嫌っていた東京の生活を、もう14年も送っている。
大阪で、毎日余裕がなくなるほど番組を制作していた頃の私、確かに今よりスケールも小さく、ローカルな存在でしかなかったろう。
でも、あの頃の私は充実していたと今になって心から思う。
今、ここにいる自分、何かを得た代わりに、大いなる何かを失ったような気がしてならない。
それが何だったのか?
今だ、未熟な私にはそれがはっきりとはわからない。
ただ、失ったのは確かだ。
それがとてもつもなく大きな財産だったという記憶はどこかにある。
それは何だったのだろうか。
自分を振り返る時、いつも思うのはひょっとしたらこの道は頂上には行かない、過った道だったのではないかということだ、カフカの「城」のように、本質のまわりをただグルグル巡ることしか、私の人生には残されていないのではないかという疑念と諦め、これを人は老いと呼ぶのかもしれない、安部邦雄