やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
夏休みに入り、私の散歩道もアブラゼミの鳴き声で埋まりはじめたようです。
最初に紹介したのは、松尾芭蕉の句です。
芭蕉と言えば
閑さや岩にしみ入る蝉の声
が、あまりにも有名ですが、年のせいでしょうか、「やがて死ぬけしきも見せず」という表現に人生の悟りをより感じたりするのです。
何年もずっと土の中にいて、おそらく暑さ寒さと全く関係のない暗い地下にいて、遺伝子がある一定の時間を越えた時に作動し、居心地のよかったはずの土の中からはい出して、木に登り、そして啼き、交尾し、枯れ枝などに卵を産みつけ、あっけなく死んで行く。
蝉にとって、地上にいることは大変な重労働なのだろう。
鮭が遡上し、卵を産みつける、その時のエネルギーの配分と似ているのではないだろうか。
蝉はもう、一杯一杯なのだ。
自分は死ぬのだなどと思う余裕はない。
けしきを見せないのではなく、見せる余裕がないと解釈したほうがいい。
忙しい時は、人間でも死ぬこと等考えないはずだ。
死ぬことを考えたり、自殺をはかったりするのは、それだけ人間が他の動物よりもヒマだからではないか。
人間は、合理化により、自らヒマを作り出しながら、そのヒマによって精神的に追い込まれたりするものなのだ。
進化したものの、大いなる皮肉と言うべきか。
ところで、最近の蝉は何故夜になってもずっと啼きっぱなしなのだろう。
いつまでも温度が高いからか、それとも照明設備が明るくなって、夜と昼の区別がつきにくくなっているからか。
7月は、まだ聞こえてくるのは、アブラゼミの声ばかりだが、そのうち、ツクツクホウシが啼き、ヒグラシが静かにカナカナカナカナ・・・と啼きはじめるだろう。
私はヒグラシが一番心が落ち着いて好きなのだが。
あ、そうそう、芭蕉が読んだ蝉は、私はてっきり、このヒグラシの声だったんだろうと思っていたが、どうも季節から言ってニイニイゼミが正しいそうだ。
斉藤茂吉はアブラゼミだと主張して、一悶着あったらしいが、どうもその筋では、ニイニイゼミで結着しているらしい。
ニイニイゼミねえ、何か拍子抜けだなあ。
間抜けなニイニイゼミが家の蔵の壁にひっついて、一日中ニイニイいっていたことを思い出す。
ニイニイゼミなんて、ほとんど値うちのない蝉だった、昔は。
今は、ほとんど見かけることがなくなったのは、何かあったんだろうか。
夜の散歩道を歩くと、猫が蝉をいたぶっている場面によく出くわすのだが、蝉の天敵って、ひょっとしたら猫かもしれないとちょっと思ってみた、安部邦雄