お金はさびしがりやだと前に言ったことがあったと思う。
だから、お金はお金のある場所へ行きたがる。
仲間が一杯いるところでないと寂しいのだ。
貧しい人の財布からは、羽が生えたようにお金は飛んで行ってしまう。
そして、お金持ちの財布には、吸い込まれるようにお金が入っていく。
使っても使っても、お金は又友達を一杯連れて舞い戻ってくるのだ。
お金持ちは、よほどのことがない限り金には困らない。
金が金を産むというのは、そういうことなのであろう。
ただし、今のようなデフレ状態ではどうなのだろう。
全体として、お金の量がどんどん減って行くわけだから、さぞお金たちは心細かろう。
このままでは、おれたち種族は絶滅だ、そんな感慨さえ持っているかもしれない。
お金はデリケートなのである。
そう思ってつきあった方がよいのではないか。
デリケートといえば、今私が読んでいる幸田真音「凛冽の宙(りんれつのそら)」に同じような表現があった。
金というものは繊細な生き物だ。
そのうえ、極端なぐらい好き嫌いを持っている。
金は人を選んで向こうからやってくる。
黙っていても自然にやってくる。
大切なのは、金が嫌うようなことをしないこと。
その一点につきる。
これは経済小説だからお金の話は避けて通れない。
でも、確かにお金をこういう風にとらえておくことが、今の時代には以前にもまして必要なことだ。
使えば使う程、バブル時代は友達を一杯連れてお金は帰って来た。
そういう風に使う人を、お金はとても好きだったのだろう。
しかし、今はそんな人をお金は嫌うようだ。
嫌われないように努力すること、バブリーな金の使い方は、もう馬鹿にされるだけなのだろう。
お金は寂しがりやで気難しやだ。
だから、お金が欲しければ、お金に嫌われないような生き方をすることだ。
そんな使い方をしたら、お金に嫌われるんじゃないだろうかと思うようなことをしないことだ。
そうすれば、自然とお金はあなたのそばへやってくるはず。
結局、人柄なのだろう。
自分を愛してくれそうな人のところへお金は集まってくる。
一円を笑うものは一円に泣くというのも、本質的には同じかもしれない。
さて、私の懐は?と思って財布を眺めると、何と確か福沢諭吉さんが集団でごそっと入っていたはずなのに、影も形もないではないか。
え?清里に行き、その後軽井沢でゴルフしていたら、福沢さんだっていい加減あほらしくなって、出て行くに決まってるじゃないか?
そうか、ただ遊び惚けているだけではダメってことね。
お金から、「あ?ら、こちらさん、とても男らしくてかっこいいわね、しばらく居着いちゃおうかしら?」なんていわれるような生き方をしないといけないわけだ。
そうか?、汝の金を愛せよか?、何かこの話を書いていると、色々別のことを思いついてしまって、何を言いたかったのか忘れてしまっちゃったなあ。
とにかく、お金に嫌われないよう、お互いに日々努力しましょうぜ、皆の衆。
でも、お金って、あんまり持っていない時にはポンポン使ってしまうけど、そこそこの額になると、なかなか使えなくなるもののようですよ、10年ぐらい前の私は、持っていてもほとんど使いませんでしたしね、安部邦雄