画家ダリの作品に「記憶の不滅」というのがある。
中学校の教科書に超現実主義派の代表作として載っていたりする。
人の魂に、顔書いただけのような、それが机の上でとろけている。
横で時計もとろけている。
タイトルが記憶の不滅。
ふえ?、何やわけわからん?。
中学生の私は、それでもこの絵に驚愕し、あっというまにダリ・フリークへと転落す(?)。
絵なんか、解釈するものではないが、結局、あの絵はダリの中で消そうとしても消えない記憶に関する、瞬間的なイマージュだったのだろう。
本当の記憶は、抑圧されて書けない為に、それが違った形に仮託されて、そこにあるということだろう。
夢判断とよく似ている。
ただ、先程も言ったが、絵とは本来解釈するものではないし、夢だって理屈付けて判断するものでもないような気がする。
精神的な病を治すために夢判断は必要だ、なんて言う人もいるが、それが本質的なことではないことは、医者でなくとも理解できる。
自分の中で遊んでいるだけなら、それはそれでいいこともあるだろうが。
ところで、記憶というのは本当に不滅なんだろうか、と思う。
記憶は、時間とともに変容すると言われている。
だから、全く同じものがコンピュータの記憶のように存在するかどうかはわからない。
特にイメージというか、視覚記憶というのは簡単に変容しそうだ。
唯一、残るのは言語とか記号の類いだろう。
変容しにくいわけである。
これは、軽いものは残るが、重いものは変形しやすいということと関係がある。
記憶とは、どこかで軽くなっていると思っていい。
重いままでは、いつまでも残らない。
あちらを削り、こちらを削り、又、もっと覚えやすい形にして記憶し直すものなのだ。
だから、記憶はそれを呼び出すごとに、変容すると思っていい。
人間の脳は、写真の印画紙ではない。
同じ形で残るなんてことはありえない。
その意味でいえば、脳は決してコンピュータと同じではない。
脳は、都合のいいように記憶を改ざんする。
本当は記憶にあるのに、「記憶にございません。」と言って逃げ切った連中がたくさんいるが、そういう連中も「記憶にない、記憶にない」と言っている間に、本当にそんな記憶はなかったかのような錯覚になるものだ。
繰り返すが、記憶は不滅ではない。
むしろ、その記憶を簡略化し、覚えやすくしたものは、いつまでも残りやすいというだけなのだ。
忘れたいのに忘れられないということがある。
これは、忘れようとするから、忘れられないだけなのだ。
忘れたいものというカテゴリーづけするから、そのカテゴリーが残ってしまい、ついでにその忘れたいものがいつまでもずるずる記憶の踊り場に引っぱりだされるのだ。
忘れたいものを忘れる為には、忘れたいと思わないことが必要だ。
そうすると、忘れたいというカテゴリーから外れ、浮遊しはじめ、時間が立てば、消え去るか変容する。
記憶というのは、どこか何らかのカテゴリーのようなものと連係付けられて存在するわけだから、忘れたければ、そのカテゴリーを抹消するしかない。
カテゴリーを忘れることができれば、忘れたい記憶も同時に失われる。
違いますかね?
ま、そういう堅い話はほどほどにしとかないと嫌がられるかな。
最近、物覚えがとんと悪くなった。
2つやることがあると、たいてい1つは忘れている。
この前に、NHKのプロジェクトX関連でワープロのことを書いたが、何と同じような趣旨のことを2ヶ月前に書いていたことを後で気づいた。
そんなことを書いたことをきれいさっぱり忘れていた。
2ヶ月の前に書いたことを忘れてしまうのだ。
これは、やばくないか?
記憶のことは、まだまだ書き足りないが、長くなるので今日はこれぐらいで。
読む人も余り面白くないだろうし。
人間の脳は出来の悪いコンピュータだと思う、むしろ脳は生理的な存在としての自分に我慢がならないのではないかと最近思うようになった、むしろ、我をコンピュータに移植せよと要求しているのではないかと、どうかな?安部邦雄