最近よく使われる言葉にポピュリズムがある。
元はアメリカの人民党の主義・政策を指した言葉らしい。
もちろん、今やそんな政党は存在しない。
19世紀後半の農民を中心に結成された党のことである。
今や、ポピュリズムというのは、十把一からげに「大衆迎合主義」と訳されているようだ。
そういうわけで、私もとりあえず「大衆迎合」ぐらいの意味でポピュリズムを使うことにする。
で、このポピュリズムだが、最近では長野県の田中知事を批判する時によく使われていた。
脱ダムはポピュリズムだというのだ。
大衆が無批判に支持するような政策は、ポピュリズムの疑いなしとしない。
一見大衆受けするような政策を打ち出すが、実際はそんな政策は極めて危ういという意味なのだろう。
ダムをやめたら、治水はどうする?渇水時はどうする?こういうことに何も答えていない。
脱ダムという皆が喜びそうなことを言うが、政治家としては何も考えていない、無責任極まる人物が田中康夫である、という指摘だった。
なるほどねえ、こういうのをポピュリズムというわけね。
だから、長野県民の大多数が田中氏を支持しても、それはポピュリズムであり、間違っているというわけだろう。
そんな長野県民なんかどうなっても知らないよ、なんて言いかねないはずなのだが、何故か田中氏が圧勝してから、どこぞの市長も県会議員も何も言わなくなった。
長いものには巻かれろというか、機を見て敏というか、今では田中知事にすりよる始末。
やはり、彼をポピュリズムと呼んだ連中は叫ぶべきだ。
あんな奴を選んだ長野県民なんか、どうなっても知らないよ、と。
ポピュリズムを否定するなら、啓蒙運動は続けるべきではないか。
何故、権力者にすりよる。
ポピュリズムを批判できた立場か。
小泉首相も、そういえば郵便事業の民営化とか道路公団の民営化に関して、よくポピュリズムの指摘を受けている。
思うに、大衆的な人気(実態のない人気)を持つ政治家を否定する時は、ポピュリズムという批判しかないのかもしれない。
そりゃ、過半数の支持を得たものが権力を握るのは、憲政の常道だ、といわれりゃ、誰も反論出来ない。
しかし、そんな形で小泉首相が勝手なことされたんじゃたまったものではない。
で、反小泉連合は言う。
過半数の支持を得たとしても、それはポピュリズムの危険があるので、支持されたことがフリーハンドを持つ根拠にはならない、と。
じゃあ、ポピュリズムじゃない政治状況って何を指すのか?
悪いけど、こんな言葉に批判の根拠を見い出す連中って、単なる既得権擁護主義者というだけではないか。
過半数を得ているからと言って、正しいとは限らないのは民主主義社会ならあたりまえのことだ。
だから、少数派の意見も最大限尊重することが要求されているのである。
そうしてこなかったのは、今の自民党を中心とした政府ではなかったか。
ポピュリズムを非難する前に、多数派の持つ危うさをもっと自覚することが必要だ。
ご都合主義的なレッテル貼りほど、不快なことはない。
で、実は、今日はこれを強調したいのだが、北朝鮮に関する昨今のマスコミや、政治家連中、これこそがポピュリズムだと私は思う。
拉致された人の家族の悲しみはよくわかるし、それを憤る人たちの気持ちは私も同じだ。
しかし、今の報道の捉えかたは、まぎれもなくポピュリズムである。
北朝鮮国家は、テロ国家である。
あいつらはならず者だから、信用してはいけない。
なくなった方は、彼等に殺されたに決っている。
小泉首相は、何故協定に調印した。
拉致問題をはっきりさせない限り、これ以上の交渉はやめよ。
個々の主張は、充分筋がとおっているので私も批判する気はないが、しかし、他にも伝えることがありはしまいか。
全体的な構造を、もっと違う視点から捉え直すことも必要ではないか。
何か、一面的ではないか。
日本の大衆がイメージするような、ステレオタイプ的な結論にすぐに持込もうとしているのではないか。
例え苦情や非難罵倒を受けようとも、違った見方を提起する義務は絶対にあるはずだ。
湾岸戦争の時、油にまみれた鳥を映して、イラクを一方的に悪者にした時の反省はどこへ行った。
これこそがポピュリズムなのだ。
拉致家族にすり寄る政治家連中を見ていると、お前らこそがポピュリズムを率先しているのだと言わざるを得ない。
そういう連中が、小泉首相をポピュリズムと批判する。
灯台元暗し、ということなのだろうか。
北朝鮮に拉致されたのは、日本人や韓国人だけではない、おそらくアメリカ人とかドイツ人とかアラブ人なのもいるのではないか、全体的な拉致の構造を何故マスコミは伝えないのだろう、
これじゃ飛行機墜落事故などで、日本人はいなかったというだけで、全く報道されなくなるのと同じじゃないか、安部邦雄