最近、国の仕事に多少とも関与できるようになって、何となく公共事業の問題がわかるようになってきた。
国の予算が公共事業に使われるメリットは何か。
ひとことでいうと、仕事のないところに仕事を作ることができることである。
地方へ行けば、本当に国や地方自治体の仕事しかない。
地方自体にものを生産する力がなくなってきているのである。
地方は、ずっと米を生産すればそれで何とか人々は食いつなげた。
出稼ぎ問題なんて昔はよく騒がれたが、経済の高度成長が達成されるにつれ、それは必ずしも地方の問題ではなくなった。
米の値段は国によって厳重に管理され、とにかく農業従事者は生産量さえ上げれば従来ほど不自由な生活を送ることはなくなった。
もちろん、今はそんな甘いことは言ってられない。
米の値段は需給で決まりはじめているし、国としては無闇矢鱈に米を作るのはやめようという政策に転換しつつある。
農業政策においても、地方の春は終わりはじめているのだ。
では、地方は何を生産できるのか?
昔は、都会より労働コストも安く、生産材もきわめて安価に手にはいることから、生産の拠点は地方に置くことがあたりまえになっていた。
しかし、地方と都会を結ぶ物流コストは少しも安くならず、高速道路を作れば作るほど、コストはさらに上がっていった。
地方は仕事を作るために、高速道路の建設という公共事業を誘致したが、それは結局地方の物流コストを上げる結果にしかなっていない。
お手軽な公共事業予算が、ますます地方の魅力を奪っていってるのである。
生産拠点が地方から、中国を中心としたアジア圏に移るにしたがい、地方は本当に魅力的な生産地ではなくなっている。
今、国が国費を通じって行っていることは、結果的には地方を疲弊化させているだけではないのか?
そんな気がしてならない。
しかも、この公共事業の金も、地方の企業にとって前ほど消費を刺激するものではなくなっている。
従前なら労働者への給与や、資材の購入や、適当な飲み食い代にパーと使っていたのだが、今や利益のほとんどは銀行へ返済という形で流れている。
というか、銀行がその金を自動的に徴集する構造になっている。
で、その銀行が、集めた金を民間の資金として再投資するならまだ良いのだが、今やそんなリスキーな運用などやろうともしない。
銀行がすることは、せっせと国債を買うことだけと言っても過言ではないような気がする。
国債費という形で国に戻った金は、またもや公共事業へと流れていく。
これじゃ、誰が見ても縮小再生産という形でしかない。
素人が見ても、こんな構造じゃ景気の早期回復なんか望めない。
そういう意味ではデフレスパイラルも又、この構造の中から脱しない限り解消されることはないだろう。
痛みとは、結局まず地方に行くことは避けられないと私は思うのだが。
お約束どおりというか、更新が間に合いませんでした。今回も少し中途半端になったかもしれません、公共事業については、またの機会にも少し書いてみます、安部邦雄