日本航空と日本エアシステムが統合される。
2004年には完全に同じ会社になるらしい。
隔世の感を禁じ得ない。
実質的には10/2が相互に協力しあう体制が敷かれた日という。
そういえば、その日、JASで大阪に向かったのだが、カウンターまで行くと何か変だった。
どこにもJASのマークがないのだ。
変てこな新しいJALマークがずーと続いている。
カウンター自体も、実に中途半端。
JALなのかJASなのか極めてわかりにくい。
ま、私はいつもどおりの窓口へ行って、いつもどおりに航空券をもらうだけなので、別に混乱はしないが、慣れていない人だと、どうしていいのかわからないのではないだろうかと思ったりした。
その日が業務統合の日であることは機内の日経新聞を読んで初めて知るのだが、準備不足としかいいようがないなあというのがその時の率直な感想だった。
地上アテンダントの服装も同じで、みんなJALマークのでかいバッジを付けている。
何か、中だけで統合を進めて、利用者への説明は後回しという印象だった。
あまり気分のいいものではない。
利用者不在のサービスだけはやめてほしいと祈るだけだ。
しかし、先程隔世の感と言ったが、本当にそう。
あの田舎臭い日本エアシステムが、ナショナルフラッグの日本航空と合併するなんて誰が予測しただろうか。
日本エアシステムは元々日本国内航空と東亜航空が71年に合併して東亜国内航空となり、88年に日本エアシステム(JAS)と名をかえたものである。
88年頃は、漢字をカタカナやアルファベットに変える風潮が強まった頃だ。(CIとかSIとか大はやり)
日航はJALに、全日空はANAに変わり、ロゴも大幅に入れ替えたものだった。
私が飛行機をよく利用するようになったのは、84、5年頃からである。
制作ディレクターとして、隔週で東京へ番組収録に行きはじめたのだ。
会社は基本的に東京への出張は新幹線利用という規定があり、飛行機の利用は例外的な時のみ許されていた。
しかし、当時は往復割引切符が新幹線を使うよりはるかに安かったし、新幹線で3時間も揺られるより飛行機の方が身体が楽だったので、いつのまにか勝手に飛行機で往復するようになっていた。
おかげで、東京出張の時は午前中は大阪で仕事をこなし、午後一で飛行機で東京へ。昼間一杯東京で仕事をし、7時前後の飛行機で大阪へ戻る。
その足で、会社へ行き、又別の仕事を処理するなんてことをやれるようになっていた。
よく仕事をする私であった。(普通は東京日帰り出張なんて嫌がられていたものだが)
そんな頃、例の日航機墜落事故が発生した。
何回か乗っていた便だ。
私はぞーとした。
犠牲となった方には知人も何人かいた。
しばらくして、私は東京での番組収録をやめた。
上司があの番組は東京支社制作にするから、もう行かなくていいと言われたからだ。
正直、ほっとしたものだった。
以来、飛行機事故を見ると、他人事とは思えなくなっている。
例の同時多発テロなんて、理由はどうあれ、絶対に許せん!
日本エアシステムが東京ー大阪間を飛ぶようになったのは、そんなに昔ではない。
84,5年には、朝と夕方に1往復だけ便があった。
たまに、エンドースして乗ったりした。(基本的には日本航空を利用)
他は、どこも座席番号はコンピュータ処理していたのに、ここだけは、座席のシールを航空券に張り付ける方式だった。
普通の紙に、シールを張り付けるという、実に素朴なチェックインのやり方だった。
手許に座席表を持っていて、「どの席になさいますか?」と聞かれて、「じゃあ、この窓側の席」と指差すと、その席のシールを剥がして、私の航空券に貼ってくれるのだ。
air doとかスカイマークの方が、まだ洗練されているだけマシではなかろうか。
当時の日本国内航空の社員はきっと色々劣等感を持ったことだろうと思う。
その田舎航空のJASがナショナルフラッグに結果的に格上げになるなんて・・・。
盛者必衰の理にならなければいいのだけれどね。
JASの話は他にも色々あるので、別の機会にまたとりあげるつもり、安部邦雄