国を愛する心という表現はまあ好ましいが、何故か愛国心というと、途端に狭義な意味が強くなる。
すなわち、戦前の日本のような「国家に従属した天皇の赤子」というイメージだ。
愛国心と大和魂は同じだと考えても良い。
その心は天皇をいただいた国家の為に己の命を捧げることを厭わない心である。
滅私奉公という、実に権力者には都合のいい言葉も日本にはある。
私が大阪で営業していた時、上司は現場の営業マンが会社の方針に異を唱えるのをいつも嫌がっていたのを思い出す。
会社が売れと言ったものを自分の知恵や身体を使って何が何でも売リに行く、それが営業マンなんだと上司は思ってほしかったのだろう。
商品がどれだけ悪くとも、売ることが営業マンの責務なのだ。
商品の良い悪いは現場の判断することではない。
正直、こう言う考え方は馬鹿馬鹿しくてしかたがなかった。
誰が見ても悪い商品を、善良な客に売り付けるのが営業の義務だとー!
客はこういう商品を欲しがっている、それを開発するのが会社の仕事だろう。
開発を誤った商品を売り付けるなんて、そんなこと恥ずかしくてできるものか。
ま、そうは思ったが、一応は売るフリだけはしていた私だった。
ここで言う営業マンを日本国民に置き換えたのが、文部科学省のいう愛国者なのだと考えてよい。
世界から望まれる、日本国民とは何なのか?
その国民が持つ愛国心とは、具体的にどういうものなのか?
今のままで愛国心を語れば、容易に戦前の修身の教科書に戻ってしまうだろう。
日本があやまった方針を出した時には、国家権力に盲目的に服従しない精神を養うことも同時に行う必要はないのか。
今、理想的な愛国心のひな形はどこにもない。
にもかかわらず、ただ愛国心を叫ぶ連中がいるとするなら、それは過去の誤った歴史に浮かぶ澱のような愛国心に他ならない。
マインドコントロールとか洗脳とか、今の世の中、簡単にこれらの行為が行われかねない、愛国心もその1つになる可能性もありそうだ、鶴亀、鶴亀、安部邦雄