私が放送局をやめ、今の会社に入った時、当時の社長は私に、いい車に乗り、なるべく大阪弁をしゃべらないようにしてほしいようなことを言っていた。
いい車に乗れ?
何の為に?
車なんか走ればそれでいいじゃないか、と言う私に、会社を代表する立場として、そこそこの車に乗っていて欲しいのだと彼は答えた。
結局、彼の望むような車への乗り換えはしなかったが、結局見えを張ることが大事だと彼は言いたかったのだろう。
大阪弁云々も同じだ。
東京で仕事をするなら、標準語でしゃべってほしいらしかった。
言っちゃ悪いが、私は10年以上プロのアナウンサーでもあった男だ。
標準語を操ることぐらい、どこの誰よりもうまい。
しかし、東京にいるのだから標準語というのはどうだろう。
そんなものTPOの問題であり、大阪弁を一切しゃべるな、なんて馬鹿なことをよく言うなという感じだった。
ま、彼が東京に出て来て、ずっとそれを意識しながら生きていたのは事実だろうが、言葉まで統制される義務はない。
私が入る迄の会社は、生っ粋の東京人と大阪人が半々だった。
で、彼はなるべく社内では標準語をということだったらしい。
私が入ってからというもの、社内の言葉はいつのまにか関西弁が主流になった。
大事なことは仕事をすることだ。
標準語がうまくなっても、仕事ができなきゃ何の意味もない。
見えを張る、という言葉の見えは「見栄」と書くらしい。
見栄えとも読める言葉である。
東京人は確かに見栄を張るのがお好きなようである。
東京人の外車好きには、私も笑ってしまう程だ。
何故、こんなに外車を買うのだろう。
左ハンドルがかっこいいなんていうのも、私から言わせればわざわざ不自由を買っているようなものなのに、それで自分を差別化できると本気で思っている。
大体、山手線の内側に住むのがステータスという気持ちも私には理解出来ない。
車の排ガスは多いは、近くに大きなスーパーはないは、騒音はあるは、ごみごみしているは、何故こんな場所に人は住みたがるのか。
田舎のネズミと都会のネズミというお話があった。
びくびくし ながらぜいたくするより質素に暮らしてのんびりしたほうがいいのだという教訓をやさしく語るイソップ童話である。
でも、東京には都会のネズミが多い。
色んな理屈をつけては、東京という町にしがみついている。
都会のネズミの見栄の張り方は尋常ではないということかもしれない。
今さら田舎のネズミには戻れないという強い意志を感じたりするのだ。
バブルを作ったのも、結局こういった見栄の饗宴があったからだろう。
見栄は、簡単に膨張しやすい。
等身大の生き方を忘れた時、見栄は確実の人の心をとらえて離さないのかもしれない。
見えには、別に見得という字もある。
これは、歌舞伎などで、「見得を切る」という所作を表している。
「動作をぴたっと決めて、客席をじっと見つめる。」
成駒屋!なんて、大向こうからかけ声が飛んでくる。
こういう見得は演出として、よく出来ている。
私も、ビジネスの中で、何度かこういう見得を切ったことがある。
「私がやると言った以上、自分の命をかけてもやり通してみせまする。」
見栄を張っているのでも、やせ我慢でもありません。
やるといったらやるのです、それが男の生きる道。
見栄を張ることには、早い話、美学がないのだ。
自分を大きく見せたい、自分のイメージを自分ではない別のものに仮託して良くしたいと思うから見栄を張るのだ。
大きくもない自分を大きく見せたら、その後しんどいだけではないか。
だから、私は見栄を張らない。
大阪人の合理主義と言ってみればそれまでだが、自分でないものをさも自分のように思って、それを評価されても私はちっとも嬉しくない。
等身大の自分でおれること、私の望みはそれだけなのだ。
しかし、今年は寒いなあ、今日は南風が入って18度ぐらいまで上がると12時前の天気予報が言っていたのに、結局そこまで行かなかった、2時間後の気温もよう当てんのか?気象庁は、今年の冬は暖冬というのも怪しいなあ、安部邦雄