さて、気を取り直して今日の更新。
誰も何も言って来なかったのがちょいと癪のタネだが。
先日、ある気象予報士のお話に興味をそそられた。
今年は、11月になってぐっと冷え込んだせいか、紅葉がとても鮮やかだという。
私がこの欄で指摘した<鮮やかさ>は、やはり気象と関係があったということだ。
夏は暑く、冬は寒い。
そうすると自然は一番美しい姿で私達の前にその姿をさらけ出すのかもしれない。
その上で、その予報士は言った。
少し前の年になるが、紅葉の予報に使う木が一度紅葉してから葉が落ちないまま冬を越したことがあるという。
枯れ葉というのは、誰でもが秋になると紅葉し、寒くなるとともに枯れ、自然に落ちるものだと思っていたはずだ。
それが、ある年だけ、自然に落ちることもなく越冬し、春になると緑の新芽が出て来たと言うのだ。
俄には信じられないような話だった。
枯れ葉なんか、どう考えても重力がある限り、強い風や雨にさらされる限り、勝手に地上に落ちるのが自然ではないか。
予報士は言った。
その木は元気がなかったと言うか、病んでいたのです。
だから紅葉はしても、その葉を落とす力がなかったのです。
葉を落とす力?というと、木は努力して枯れ葉を落としていたと言うの?
そう言われれば、そうかもしれないと思った。
落葉樹にとっては、冬は自分の力を貯える時だ。
じっと寒さに耐え、最小限の活動しかしない。
無駄な力は一切使いたくない。
その為には、身体にまとわりついた葉は邪魔なのだ。
だから、その葉に栄養や水分を行かないように自らを変身させる。
紅葉はその第一ステップにすぎない。
だが、木に力がないと、その変身ができなくなる。
栄養や水分は葉脈等で繋がっていれば、ずっと葉に送られ続け、結果として葉は落ちないまま、冬を越すことになる。
もちろん、そんな木は春を迎えた時にも病んだ状態は変わらない。
何らかの手当をしなければ、いずれ木自体が枯死してしまうことになるのだろう。
木は生き続けるためには、葉を落とさないといけない。
生き続ける力が弱った木は、それゆえ葉を落とす力もないというわけだ。
なるほどなあ、と感心した次第。
人間にも、これに近い話がいくつかある。
老人になると、朝早く目がさめるというが、これは老人になると寝る為の力が弱くなるからだと言う。
ずっと寝ていることにも力がいるそうなのだ。
これは、若い人には全くわからない話だ。
だから、年をとると、寝ているよりも起きている方が楽だったりするとか。
朝早くから、ゴソゴソ起き出すと、家のものに迷惑だからと無理して蒲団の中でしんどい思いを我慢しているお年寄りも多いそうだ。
これ、最近の私にもよくわかる。
夜寝ると、朝迄ぐっすり眠ってしまうなんてこと、ほとんどない。
大体、5時前後には一度目が覚めてしまう。
ここで起きるのも手なのだが、頭はすっきりしているかというと、朦朧としたまま。
決して、気分の良い目覚めにはならない。
だから、無理してももう一度何とか寝ようとする。
それが疲れるのだ。
寝なければという気持ちと、どうしてこんな時間に目をさましてしまうのだという呪詛の気持ちがないまぜになって、どうにも不快なのだ。
年をとると、本当に今迄考えもしなかったようなことが続けて起きるようになる。
目が見えなくなる、耳は聞こえなくなる、あっちの方はさっぱりだ、等々。
風邪も一回ひくと、20日経っても完治しないとか、ね。
表題の「死ぬ力」というのも年とったら弱くなるというのも本当のような気がする。
死ぬ為にも力が必要だと私は思うのだ。
その力すら、年をとるとどんどんなくなって行く。
若い時にガンになると、あっという間に進行し短い間に死に至るが、年寄りのガンはなかなか進行しないというのも、「死ぬ力」と関係がありそうだ。
死にたくとも死ねないという話がよくあるが、その理由が自分の中に死ぬ力が衰えてしまったからというのは、正直辛いだろうなと思うのだが。
幸せでもなく、これ以上の進歩も考えられないのに、死ぬことができない、生理的に。
そんな状況をあなたはイメージできるだろうか。
感受性が少々人より強い私には、耐えられないイメージなのである。
葉を落とす力もなくなった木の話を聞いて、しばらくおぞましい気分が晴れなかった、その時の私だった。
昨夜、20日ぶりで近くの公園を散歩した、いつの間にか木々は葉を落とし、秋の虫の合唱は全く聞こえて来なかった、私が蒲団の中で風邪と戦っている間に、虫達はその生涯を終えていたのだ、何て殺風景な秋の夜だろうか、安部邦雄