昨日、007の話題で、第一作は「007は殺しの番号」というタイトルだったと言ったが、第二作目も途中でタイトルが変わったことを思い出した。
今では「ロシアより愛をこめて」として有名だが、最初は「007危機一発(髪ではない)」、当時はそういうハードボイルド風のタイトルでなければ客は来ないと思われていたのだろう。
007を知らない人も一杯いたので、「愛をこめて」じゃ純愛映画と間違われかねないのも事実だったかもしれない。
007=ハードボイルドというイメージが根付いたため、きっとリバイバルの時に、元の名前をそのまま使うようになったのだと思う。
商売というのは大体そういうものだ。
昔よく聞いた話だが、新人アーチストが「僕はこんな歌は歌いたくない、もっと自分が本当に思ったことを歌いたい」と主張した時、マネージャーやプロデューサーが「とにかく、今の客が欲しがっている曲を歌わないと誰も振り向いてくれないよ。お前の歌を聞いてほしかったら、一度客がお前に向いてくれてからにしろ。そうしないとお前なんて、最初から無視されて終わりだ。」と冷ややかに言い放ったという。
最近は、あまりそういう話は聞かない。
アーチストの方が、初めからお利口さんになっているのか、それともプロというのがどういうものかわかっていないかだろう。(芸人さんの間では、まだよく聞かれる話だが)
先日、ある音楽プロデューサーと話したことを思い出した。
今の若い連中は音楽を作るという意味がわかっていないのではないか。
彼等はただ、自分の曲の入ったCDを出すのが目的だと勘違いしている。
自分のアーチスト活動は、CDさえ出せればすべてが完結すると思っているのではないか。
そういう風に思わせてしまう業界も悪いが、自分の人生を音楽を作ることに捧げようと思うなら、目的はCDを作ることではないということぐらい気づかないといけない。
一生ミュージシャンであり続けることがどういうことか、そういうイメージトレーニングぐらいできないと長い人生をどうやって生き続けるのだと説教したくなる。
そうだねえ、などと相づちを打ちながら私も考えた。
一昔前だったら、歌手の人生って何となくイメージができた。
三橋美智也、春日八郎、藤山一郎、美空ひばり、淡谷のり子。
生涯、一歌手として一生を歌を歌うことに捧げた。
今でもそんな人たちはいる。
特に演歌の世界の人たちは、毎日毎日どこかで歌を歌い、自分が声を出す事によって人生を生き抜いている。
音楽を仕事にするということは、つまり毎日音楽を発信する事に他ならない。
翻って、今の売れ線といわれているアーチスト達。
一生、どうやって飯を食って行くつもりだろうか。
今、ミリオンヒットを出したからと行って、それで人生が終るわけではない。
もちろん、うまく利殖に励めば、何とかその金で一生食えないこともない。(アメリカにはそういう人が時々いるが)
しかし、今CDを出して、それをヒットさせて音楽界で評価されたいという気持ちの後に、一体新人アーチストの連中はどんな人生設計をしているのだろう。
バクチ打ちとどこが違う?
それとも、アーチストというのは、相変わらずモラトリアムの中にいるつもりなのだろうか。
それじゃ、フリーターと大して変わらない。
後に来るモノの為に、人間としての生きざまを見せる義務がありはしないか。
アーチスト=フリーター、たまにそんな中から、ちょっとヒットしたりする連中も出てくるが、結局は又フリーターに戻るだけ。
つまり、メジャーデビューなどと言って浮かれている連中のほとんどが、プロフェッショナルなどというものでは決してなく、単なるフリーターが仮の宿としているだけのものではないか、と。
音楽業界も、おそらくそんな認識しかしていない。
一番おいしいところを搾取して、いらなくなったらポイである。
そんな構造の中にあるから、レコード業界も衰退の一途なのではあるまいか。
フリーターは、それ自体が拡大再生産するものではない。
バクチ打ちと変わらないと私がいうのは、そういう意味でもあるのだ。
でも相変わらずアーチストになりたくて、若い連中が毎年東京に集まってくる、フリーターばかり東京は養成して、これからも発展できると思っているのだろうか、安部邦雄