昨日は、実に中途半端な話を書いてしまった。
書いたついでに、もう少し教育論に触れてみる。
教育には、もちろん目的がある。
例えば、それが国家的な色合いを帯びることもあろう。
国家に対する忠誠心もその1つ。
今の日本国憲法にも国民の義務というものが規定されている。
労働・納税・教育の三大義務である。
徴兵制のある国には、これに兵役の義務(基本的に男だけ)などが加わる。
幸い、現代日本には兵役の義務はない。
一部の勢力にとっては、いつかこの義務も復活させなければいけない対象である。
この義務さえ復活すれば、靖国問題は間違いなく消えると思っているはずだ。
兵役で命を落とした人々を祭るところ、それが靖国神社だと言えば反対する人は確実に減るに違いないからだ。
今、靖国に祭られている人は、もう過去の人ばかり。(近い人で57年前だ)
ほっておけば、どんどん遠ざかる人たちばかりだ。
自分のお祖父さんとか曾お祖父さんぐらいまではケアできるが、それ以上となるとどうしても疎遠になる。
いつか、祭られている人を直接的に知る人はいなくなる。
そうなると、靖国は今のような華やかな位置を維持出来なくなる。
どうすればいいかは、おわかりだろう。
今の自衛隊を海外に派遣して、殉職者(という表現は変かもしれないが)を次々に出すしかない。
後方支援とか情報収集とかでは、なかなか戦死なんてことは起きにくいので、靖国を維持する為には、実際に最前線に隊員を送るしかない。
さて、どうやってそうするか。
国家主義者たちのこれからの言質を注目して行きたい。
しかし、これだけは繰り返し言っておく。
ほっておけば靖国神社は過去のものになる。
それに危機感を持っている人たちは、今も確実にいる。
本当は、私達の最善の選択は、靖国問題なんかほっておくことなのだ。
国会議員が参拝しようと、総理が公式参拝しようと、無視しておくのが最上だった。
でも、アジア(中国、朝鮮)の民衆が黙っていない。
彼等の中にも、いまだに日本軍の侵略行為を目の当たりに見た人たちがまだいる。
お祖父さんが実際に殺されたり、拉致された人もいる。
靖国を参拝する遺族達と裏腹の関係なのだ。
時間が解決するのを待つしかない。
石原知事のように、北朝鮮と戦争するなんて馬鹿なことは言わない方がいい。
戦争なんかすれば、靖国がますます重要になるし、民族同士の対決は終らない。
100人程の拉致された日本人のために、何故そこまでしないといけないのか。
あれ?教育論を書くつもりが、靖国論になってしまった。
私の言いたいことは、教育の理念は理念だが、それは永遠ではないということ。
時間が変われば、又そこにいる人が変われば、場所が変われば、理念は自然に変質すると言うこと。
何が相対的なもので、何が絶対的なものなのか、私達はもっと区別してかからないといけないということだ。
意外と絶対的だと思っていたことが、相対的なものにすぎなかったことに気づくはず。
明日は、そのあたりをじっくりと。
冬になると身体が痒くなる人っているんだということに気づいた、何故なら私がそうなったからだ、テレビのコマーシャルで、かゆいかゆいとのたうちまわる人を見ていて、何とも思っていなかったのに、今はとても気持ちがわかるようになった、ホントたまりまへんなあ、安部邦雄