教育は完全ではない。
教育によって、理想的な日本人ができるなどと考えるのは愚の骨頂である。
ただ、理想に近い日本人を作る努力はしないといけない。
それが、教育というものの本来的な理念である。
教育というと、ルソーの「エミール」を忘れることができない。
しかし、ルソーの描いた世界が、今の日本で実現されているとは言いがたい。
知識偏重型から課題解決型教育への移行は論議されるばかりで実施されているとはとても思えない。
未だに東京大学等エリート校の入学要件は知識である。
受験生はただ与えられた問題を事前に暗記した方法で解いているだけである。
課題を自分で見つけ、その解答方法を自分で開発する能力なんか誰も求めてはいない。
しかし、明らかなように、今必要とされているのは、知識ではない。
問題を解決する能力、あるいは複雑に入り組んだ利害関係を調整し、大多数が幸せになる方策を見つける能力である。
しかし、大学の入試は相変わらず知識偏重。
何故なら、問題を作る側がそういうやり方しか知らないからだ。
英語の試験によくあらわれている。
言葉を話せること、聞き取ることはできなくても100点はとれる。
合格なのだ。
一体、どういう基準で聞くことも話すことも出来ない人に合格を出せるというのだ。
少し話がそれた。
私見だが、教育の過程で100%などと言うのは存在しないと思った方がいい。
教えることの50%でも相手に与えることができれば成功といえるだろう。
それゆえ、半分わかれば問題がないような教育の仕方をするのが正しいやり方だ。
100%を達成しないと不合格なんて教育は洗脳にすぎない。
そんなことは、本来自然界には存在しないことだ。
そう、洗脳とかマインドコントロールとかいうのは、人と人が自然の状態につきあったり、コミュニケートしている間には絶対に起きないことだ。
こんなことができるのは、地球上では人間だけだ。
人間を特殊な条件の下に置き、純粋培養的に「真理」を植え付ける。
これが、洗脳である。
北朝鮮で起きていることがまさしくこれである。
それでなければ、国民全部が金正日マンセーになるはずがない。
昔の日本でもそう。
全員が天皇陛下万歳になるはずがない。
ある特殊な環境に人を置き、毎日のようにバイアスをかけ続ける。
そうしない限り、「真理」を100%伝えることなどできるわけがない。
どこかの宗教団体なども、まさしくこういったプロセスで「真理」を信者に注入していると言わざるをえない。
真理にカッコを付けているように、これは相対的な真理である。
普遍的な真理ではない。
自然の真理ではないと言った方がイイかもしれない。
ある特殊な環境がなければ成立しないような真理は、絶対的な真理とはいいがたい。
相対的な真理を、絶対的な真理と教え込む愚はやめるべきである。
国を愛する気持ちを持つのは、とても大切だし、それはすべてへの愛情を持つこととイコールでなければいけない。
しかし、排他的な愛国心は、絶対的な愛国心ではない。
状況によって愛国心の中味が変わるようなものは、教育の目的としては落第である。
人を愛し、郷土を愛し、世界を愛する気持ちと矛盾するような愛国心は、奨励すべきではない。
愛国心が足りない等と言って、学校教育にそれを持込もうと言う連中は、たいていの場合それを利用した人民支配を狙っていると考えて良い。
考えたら住基ネットなども、行きつくところは効率的な人民支配である。
本当に国のシステムを信頼するには、まだまだ克服すべきことが多いのが今の日本の現状である。
あ?あ、書いてはみたけど最後迄中途半端な論旨だなあとため息が、でも、書いている内に自分の中に問題意識も生まれてくるはずだから、とにかく書いてみるしかないと思う次第、ま、そういう感じかな、安部邦雄