昨日は何か大阪弁の話になってしまった。
先日、東京のテレビで南州太郎氏がお得意の芸を若手芸人に教えていた。
外国人が聞いた日本語というのが面白かった。
日本語の雰囲気を全く日本語の具体的なフレーズを使わずにしゃべるという芸だ。
若手芸人が何人かチャレンジしたが、途中でやはりいつも使っている日本語が顔を出す。
その中で大阪人のアメリカザリガニの片方が、それを見事にやって見せた。
南州太郎氏は、その若手を君はなかなか筋がいいと誉めていた。
で、それを見ていた私は、自分でも軽くやってみた。
ぎこちないけど、何とかできるのに気づいた。
どこか、韓国語っぽいイントネーションになるが、まあまあ日本語に聞こえないこともない。
で、そこではたと気づいた。
関西人だったら、それほど難しくないかもしれないなあ。
何しろ、普段から標準語と大阪弁のイントネーションを適宜使い分けているのが関西人なのだ。
正直言って、大阪弁を操るのは標準語を知ってからでは難しい。
関西で日本語の構造を知り、その後標準語を話す方が簡単なのである。
そう、標準語は人為的に作られた面もあるため、習得するのが易しいのだ。
大阪弁はシチュエーション、シチュエーションで用語が違う為、状況と一緒に覚えないと使い方を間違いやすいのである。
話は少し違うが、昔の遊廓の花魁には、花魁言葉というのがあった。
「わちきは?でありんす」というのは、東北等の田舎の訛りを出さない為の工夫がされているのだという。
つまり、リズムが単調であり、そのリズムさえ習得できれば、後はそれに言葉をのっければいいので言葉の矯正には便利だったらしい。
同じような例がバスガイドの話し方。
「みなさま、右手を御覧下さい。?で、ございます!」
変なリズムがあることを感じるはずだ。
これもバスガイドのなり手が集団就職で上京して来た田舎の女の子だったため、簡単に訛りを抜く為に開発したしゃべり方だと聞く。
話が又それた。
言いたいのは、標準語がベースの人たちは、違う日本語がしゃべりにくいということだ。
例えそれが意味不明の日本語をしゃべるにしても、すぐに標準語に基本を求めてしまうのだ。
ところが大阪人は、基本が大阪弁であり、それと同じ構造を持った標準語をパラレルでしゃべれる為、意味不明の日本語もそれほど不自由なくパラレルでしゃべれるのだ。
江戸時代の関西人が、東北人をほとんど見たことがなく、言葉も聞いたことがないので、鼻をつまんで言葉をしゃべったら、そのまま東北弁になると信じていたという話もある。
大阪人にとっては、言葉は脳の中できわめて相対的なものだということかもしれない。
標準語も絶対的な存在ではない。
だから、意味不明の日本語を無理矢理しゃべることにそれほど苦労しないということなのだろう。
さて、私のこの説、果たしてどうなのだろうか?
では、昨日の電車の中の会話の続き、と思ったが、違うことを書きすぎたので、その話は又明日に。
ま、わざわざ書くほどの話じゃないかもしれないのだが。
そろそろ自宅の掃除や事務所の整理もしないといけないのだが、なんせ一人でやっていると、きっかけがなかなかない、家来どもは誰も自分の机の上の整理はしたくないようだし、私だけきれいにしてもね・・安部邦雄