日本人って、隣人とのつきあい方が下手なのかもしれない。
なるべく軋轢をおこさないで共存しようとすると、ストレスもたまるし、結局本当に心からうちとけることもなく、つかずはなれずのつきあい方しかできないようだ。
昔は隣組とか向こう三軒両隣りなどといって、仲良くしたものだという話もあるが、本当にどうだったかわからない。
「ヤマアラシ・コンプレックス」という言葉がある。
ヤマアラシにはトゲが生えているため、お互いに体を温めあおうとして接近し過ぎると、互いをトゲで刺してしまうというところから来ている言葉だ。
つまり、ある程度の距離を保たないと、お互いを傷つけあうのではと恐れる心理である。
日本人にはこの意識がとても強いように思う。
でしゃばったことを言うと相手に嫌がられるのではないか、変に介入すると後で嫌な目にあうのではないか、君子危うきに近寄らず、相手から言われない限りほっておこう。
ほとんどの人は、大体こういうパターンである。
図々しい人とか、デリカシーがなく、何でも口出す人などもいるが、それは少数派であろう。
昔の日本人はそうではなかったという人もいるが、実際はどうだったか疑わしい。
民族の習性はそんなに簡単に変わったりしない。
で、思うのだが、隣人とつき合うのが下手な日本人がマトモな外交ができるのだろうか。
北朝鮮とのつきあい方しかり、中国や韓国とのつきあい方しかり。
どうも日本人は近いところとのつきあい方がとても苦手なような気がする。
アメリカとか、ヨーロッパは遠い人だから、たまにしか来ないお客さま扱い。
しかし、これがアジア地域となると段々混乱してくる。
アジアといっても、インドとかパキスタンとか、タイやマレーシアぐらい遠いとそれほどでもないのだが、朝鮮半島や中国となると苦手意識が強くなるような。
時々、これらの地域に体して高飛車な態度で出る人がいるが、これは結局苦手意識の裏返しではないかと思う。
それと同じぐらいに卑屈な人もいるが、こちらは見事に苦手なのだろう。
今の人が人付き合いをしなくなったのではない。
基本的に日本人は文化的に人付き合いが苦手なのではないだろうか。
日本人が中国や朝鮮で非道なことをしたのは、結局この苦手意識がわざわいしたのではないかと思うのだが。
つまり、日本人は何とか現地の人と穏やかに共存したいと思うのだが、どうも相手はそうではなさそうだ。
相手の立場を考えたり、ここは自分が我慢してという謙譲の美徳があってもよさそうなものなのに、とにかく彼等は文句ばかり言う。
下手すると、モノは盗むは、ウソはつくわ。
こちらは一生懸命我慢しているのに、あいつらと来たら、そんなの当然だと言う顔をしている。
くそう!もう堪忍袋の緒が切れた。
許せん!そこになおれ!
相手からすると、日本人がそんなに我慢しているなんて思わない。
同じように接して来たのに、いきなり怒り出して刃傷に及ぶなんて信じられない。
日本人は鬼神だ!なんて言い出す。
人と人のつきあいは我慢から始まる。
そんなものはグローバル・スタンダードではない。
確かに私達はそういう風に暮らすことを無意識に刷り込まれているが、そんな文化が生きているのはひょっとしたら日本だけかもしれない。
日本という狭い社会では生きられても、世界で生きるのはちょっと辛い。
早い話、日本人は濃密な人とのつきあいには慣れていないのだ。
アメリカ人のような接触文化は苦手だし、考えたら中国人や朝鮮人の方が、はるかに身体でコンタクトしてお互いの存在を認めあう。
日本人は、親しくない人にこんな行動は絶対にとれない。
私なんか、自分の親や家族と握手することだって照れてできない。
さて、これから日本がグローバル化して行く中で、こういった人と接することへの臆病さというのはなくなって行くのだろうか。
今は確かに過渡期であろう。
でも、外交を重視するなら、これらはいつか変容して行くしかないのではないか。
さて、どうなるのだろう。
日本がどんなにすばらしい国かを強く主張する人がいるが、その人の隣人とのつきあい方って、どうなんだろう、気のあう人としかつきあいたくない、外人なんて大嫌いとか思っているのではないだろうか、安部邦雄