ふと思った。
自分自身をパソコンに入れて、後はパソコンが自分の判断で仕事をしたとしたら、その仕事は私がやった仕事になるのだろうか。
パソコンのやる仕事を見ながら、確かにこれは私のやりそうなことだと思うのだろうか。
それとも、パソコンに対して自己疎外を感じたりするのだろうか。
ここでの課題は自己疎外である。
パッペンハイムはかって「近代人の疎外」という名著を著した。
自己が産み出して来たもの(理念自体を含めて)、それ自体に人は否定される。
否定された人格は、もはやそれ自体を克服することはできなくなる。
つまりパソコンに自分を移しこんだ時から、自己疎外がスタートするわけだ。
パッペンハイムとかマルクスとか、過去の遺物のような気が最近してきていたのだが、どうもそうではなさそうである。
パソコンに自分の仕事を移植することによって、自己疎外が発生する。
これを私は現代人の疎外とでも呼ぼうかな。
何を言いたいのか。
つまり、私の代替機能をパソコンに求めても、必然的に生まれる自己疎外をとめる方法はないということだ。
私自身がバーチャルになればなるほど、それはますます私を疎外して行くのだ。
自己疎外の病理は、自分を客観的な場所に置けば置くほど、肥大化する。
大事なことは、デジタルの世界で遊ぶにしても、常にそう言ったリスクを覚悟しておかないと精神的に危ないよ、と言いたいわけ。
ゲームばかりしている人もそうだし、ネットの中に閉じこもってしまう人もしかり。
自分の頭脳は、常に自分の身体とともに存在しないといけない。
頭脳は、それ自身を解放した時から暴走しはじめる。
身体は、それ自体が物理的に限定されるため、暴走することはない。
身体は、自分のできることとできないことを知っている。
10キロの荷物は持てても、1トンの荷物は持てない。
100メートルを5秒で走れと言われても、絶対にできない。
脳を制御できるのは、自分の身体しかないのだ。
だから、自分の脳をパソコンに預けるようなことは絶対にしてはいけない。
何が起こるかは、本当に想像もできない。
「ザ・フライ」の蠅男になる可能性もないとはいえないしね。
今日はビジネスプランの発表会があって、ちょっと疲れ気味、何か前から頭の中でもやもやしていたことを勢いで書いてしまった、私の意思が伝わるかどうか心配、安部邦雄