1=2の証明というのがある。
まずA=Bとする。
両辺にAをかけると A二乗=AB
両辺にB二乗を引く A二乗?B二乗=AB?B二乗
因数分解すると(A+B)(A?B)=B(A?B)
両辺を(A?B)で割る。 すると A+B=B
A=Bだから 上式は 2B=Bとなる。
両辺をBで割れば 2=1 証明終り。 そんなアホな。
これは安斎育郎さんの「人はなぜ騙されるのか」(朝日新聞社刊)に掲載されていたもの。
2=1なんてことがあり得たら、双児なんか存在しないわけになる。(変な比喩)
おわかりだと思うが、両辺を(A?B)なんかで割ってはいけない。
A?Bは誰が考えても0である。
そんな具体的に存在しないもので、具体的に存在するものを割ってはいけない。(0は抽象の世界では存在する。)
人間だまされるというのは、(A?B)なんて言うとあたかも存在するかのように思ってしまうところだ。
つまり、抽象的な言葉で表されたものは、騙しやすいということだ。
具体的に0と言えば、そんなもので割ってはいけないことに誰だって気がつくはずだ。
そう、これは裸の王様そのものだ。
服を着ていないにもかかわらず、服が見えないものには邪心があると言われると、もう着ていないとは言えない。
(A?B)がわからないようでは、馬鹿なのである。
しかし、(A?B)が0であることには、なかなか気がつかない。
邪心があるとか、見えないやつは馬鹿だと言われると、なかなか口に出せなくなる。
クラシックのコンサートでもよくある。
演奏会で、あまり聞いた事がない曲をアンコールでやられたらどこで拍手していいかわからない。
知らないとカッコ悪いという意識が観客に働く。
そんなの、わからなければ知らないで済むのに、何故か終わりに近づくにつれ、こわばった空気が流れるのだ。
そんな事気にしていたら、音楽を楽しめないだろうと思うのだが、クラシックのコンサートだけは、何故か終わりを知っていないといけないという強迫観念に取り付かれ過ぎるのだ。
俺は知っているんだぞ、という香具師がフライング気味に手を叩いたりする。
余韻に浸っているのに、何だという文句も聞こえてきたりする。
クラシックというのは、本当に(A?B)という虚飾が作品そのものを被っていると言う事なのだろう。
具体的な事なら誰にでもわかる。
演奏家が頭を下げれば一目瞭然だ。
抽象的なものだけでは、終わりなんかわからないもの。
無理してわかる必要なんか本当にあるのか。
人間、頭がよくなればなるほど、この抽象化の陥穽に落ち込みやすい。
何か、その言葉を言えばわからない奴はアホという雰囲気がただよう。
合成の誤謬なんて言葉もそうだし、私がよく使うパラダイムの変換もそうかもしれない。
それを言えば、一件落着。
みんな、わかったような気分になる。
しかし、具体的な事をもっと言わないと本当は証明した事にならないのは事実なのだ。
抽象的な論議だけで、天下をとった気分でいる連中、ま、官僚をか知識人なんかまさしくそうだが、そんな話より、もっと具体論を語るべきではと思わないでもない。
やはり、もっと具体的に世界を語るべきなのだろうな。
抽象化は結局レッテル貼りと同じ性質を持つものであることは否定出来ないからね。
安斎さんの本には、私が大学時代に習った「クレバーハンス事件」のことも載っていた、だいぶ前に書いたことだけど、覚えている人いるかなあ、安部邦雄