ネットカフェに光がまぶしく入り込んでいる。
月曜日のこの時間は都会の喧騒もそれほどではない。
外人さんが多い。
多分、母国の情報をネットに求めているのだろう。
アルファベットが母国語の人はいい。
どこの国に行っても、アルファベットのフォントは必ずあるはずだから。
どこへ行っても、自国の情報を現地のパソコンで見ることができる。
しかし、日本語をはじめとしたアジアの言葉はそうはいかない。
ハングルも中国語もタイ語もペルシャ語も。
どうしたらいいか。
結局、どこの国の人も英語を使うしかないのではないか。
世界の恒久平和を語るには、英語が共通語として認知されることが一番早道な気がする。
もちろん、母国語は母国語として置いておけばいい。
私は大阪人だから、別にそういうことに違和感は持たない。
東京にいれば、公の場では可能な限り共通語(標準語)を使う。
大阪では、時と場所によってべたべたの大阪弁。
どちらもコミュニケーションのためには重要な言葉だ。
だから、多少言葉の構造が違ったからといって、明日から共通語は英語だと言ってもらってかまわない。
先日、外来語(インセンティブとかイノベーションとかユビキタスとか)を日本語に置き換える作業を新聞が報じていた。
やはり、日本語で表現できることは表現しようというのだが、何もそこまで共通語を残さないといけないわけでもなかろう。
いったい、どれだけの地方の言葉を我々は失ってきたことか。
方言撲滅運動と同じ愚挙のような気がして仕方がない。
とにかく、明治維新を経て、日本は言語の統一化が叫ばれ、今の共通語生まれたことを忘れてはならない。
1世紀かかっても、何とか日本のどこに住む人も共通の日本語がしゃべれるようになった。
それぐらいの、教育の力は日本にあるのだ。
英語を共通化することぐらい、何でもなかろう。
地方の言葉を撲滅しておいて、何が日本語を守れだ。
などと、憎まれ口を書いてみた。
大阪にいると、たちまち大阪至上主義に立ち戻る私。
降りそそぐ日の光も、どこか3000年の歴史を感じさせる味わいのある光である・・・・?
2010年は奈良建都1700年などと書いてある、確かにそうかもしれないが、リアリティないなあ、第一祝うって、何を祝えばいいの?安部邦雄