荘子の「蝶を夢む」という話に最近リアリティを感じるようになってきた。
自分が蝶になっているのを夢に見る。
その時、一体どちらが夢なのだろうと荘子は考える。
ひょっとすると、私は本当は蝶で、その蝶が今生きていると思っている自分を夢に見ているだけではないのかと。
初めて読んだのが、高校生の頃だった。
言いたいことはわかるが、まるでリアリティがなかった。
夢は所詮夢ではないか。
朝、目を覚ませば消えてしまう、それはうたかたの存在だと。
最近、だんだんそんな気がしなくなっている。
人生全てがうたかたの存在かもしれない。
ならば、そのうたかたの内に見る夢こそ、本当のリアリティがあるのではないか。
そんなに楽しい夢を見るわけではない。
だが、たとえ苦痛であっても、夢の世界に生きている自分がとても愛しく感じたりする。
出てくる人々に、いつもご苦労さんと声をかけたくなる。
体験という記憶の量が増えれば増えるほど、夢は今という時を圧倒的に凌駕しはじめる。
今よりも、私の記憶、私の夢の世界が肥大化してくるのである。
記憶量が少ない、若い頃には全く感じられなかったことが、50を過ぎて次々にリアリティを持ちはじめるのだろう。
夢がうつつか、うつつが夢か。
それがどんなに悪夢であっても、その空間に自分を浸すことは、限り無く愛おしい。
年をとることの一断面ということかもしれない。
電車に揺られながらのふとしたまどろみの中、ここはどこ、私は誰?と惑う私も又好ましい、安部邦雄