初めてこの話を聞いた時、私の心に浮かび上がったのは理不尽という感情でした。
小学校2年の時のお話の授業だったでしょうか。
絵本で読んだわけではなかったので、アリスもウサギもイメージはあまりなく、ただただ話していただく先生の言葉を聞きながら、ストーリーを追っていました。
嘘だろう?小学校2年生が理不尽?
理不尽というのは、今から考えての話です。
釈然としないというのでしょうか、でも、不思議の国のアリスの話は、今までに聞いていたお話とはまるで違う世界だったということです。
何故、木の株の穴にウサギは入り、何故、アリスがそれを追っかけていくのか?
その後の運命に弄ばれるアリス。
何も確実なものはなく、ただ、行き場のない自分があるだけ。何ていう世界だろう、この世界は。
ルイス・キャロルが自分のイメージを連想風につなげていくと、自然と出来上がっていったのが、不思議の国アリスだったといいいますね。
子供心に、この話は子供達をどこかの異次元へ連れていき、二度と戻れなくさせる魔術ではないかと思ったりもした。
前にも言った「子とり」(だいぶ前に既出)への恐怖心とも重なるし、ピーターパンのネバーランドとも重なります。
子供の恐怖心というのは何なのでしょう。
基本的には、親から隔離される恐怖であったり、見失う恐怖であったりするわけで、私の理不尽な感想というのは、これらの恐怖から全く自由にアリスが振る舞うところにあるのかもしれません。
もちろん、アリスは途中で、元へ戻れない自分に涙してしまうところがありますが、本当に恐怖から悲しんでいるようには見えませんでした。
ただストーリー上、泣いてみただけのような気がしたのです。
鏡の国のアリスを知ったのはもう少し後、もうほとんどディズニー映画の世界になるので、あまり理不尽な感じはありませんでした。
唯一、トランプの兵隊が異様だったぐらいでしょうか。
森の中で会いたいとは少しも思いませんでしたが。
さて、不思議の国のアリスを子供の頃聞かされたといいましたが、ストーリーを完全に理解したのは、大学に入ってからでした。
原書で Alice's Adventures in Wonderland を読むまでこれがこんなにシャレっけ一杯のお話だとは全く知りませんでした。
理不尽というよりも、連想ゲームの楽しさというか、だじゃれ連発話というか、フロイト的精神分析の世界というか。
大体、元のタイトルがアリスの冒険というニュアンスですから、どこにも人生を考え込む要素なんかないのではとさえ思ってしまいます。
小学校2年の私の世界は理不尽であるという感想は何だったのでしょうか。
でも、あの時の情景は今も強く私の記憶の中にあります。
それは、今、誰でもが知っている「不思議の国のアリス」ではなくって、あの時、先生が話してくれた理不尽な「不思議の国のアリス」です。
今、子供達に向かって、お話を聞かせている皆さん。
それぐらい、子供の心は繊細に世界の理不尽を嗅ぎとることができるのです。
これぐらいなら、子供にはわからないだろうと思ってはいけません。
子供はどこかですべてをかぎとっています。
言葉を知らないから、表現できないだけです。
お気をつけくださいね、世のお父さん、お母さん方。
子供はすべてを感じとっているのですから。
子供もいないくせにと言わないでね、安部邦雄