インターネットだ、ITだと、文明の進歩が著しいにもかかわらず、相変わらず日本人の心の中には、「文化としての武士道」が生き続けている。
代議士が死んで、補欠選挙。
後継者は決まってその選挙を「弔い選挙」と位置付けて戦おうとする。
陣営は叫ぶ。
「そうだ、そうだ、弔い合戦だ。故人の為に絶対負けられない。」
それで、たいていは当選確実。
そんなメンタリティが21世紀の今も厳然として残っている。
「本来なら、今回の失敗は切腹ものだ。」
そういう責任の追求の仕方をする人も多い。
太平洋戦争の末期、「死んで天皇陛下にお詫びする」と切腹して果てた司令官、数知れず。
「それでこそ、帝国軍人」
やったことの中味の詮索はそれ以上してはならない。
彼は責任をとったのだ。それでいいではないか。
大物代議士の秘書が、自分の命をかけて殿様の犯罪を隠ぺいすることも日常茶飯事のように起こる。
死んだものに鞭打つことは許されない。
こういった日本人の心性を共有する人が今も一杯いる。
忠臣蔵は、相変わらず国民の無言の支持を受けている。
小泉首相の支持率とそれは同じだ。
だいたい、忠臣蔵で責任を問われるべきは、誰が考えても時の江戸幕府である。
中途半端な裁きをしたことにより、赤穂浪士をテロリスト集団にしてしまったのである。
吉良上野介にも、人間として問題はあったかもしれないが、そんな個人的なことで悪者にされたらたまったものではない。
テロリストの標的になって惨殺され、テロリストは後に切腹して己の責任をとった形となり、今や国民の英雄である。
武士道を貫いたことと、最後は切腹して果てたこと、これらが彼等を英雄に仕立て上げ、現代の日本人のほとんども、この状況を肯定している。
アルカイダとかビンラディンとかは、外国人だから何の共感性も持てない。
外人でも、スティーブン・セガールのように、日本の文化に造詣が深く、日本語をしゃべると又別のようであるが。
もし、ビンラディンが武士道を語れば、ひょっとしたら日本人は、アメリカの戦争に手を貸すのに少しは躊躇するかもしれない。
忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず
等と演説し、「お離しくだされ、妙信どの。落ちぶれ果ててもラディンは武士・・」とか、「オサマ・ビンラディンは男でござる」とか言えば、拍手喝采する嬉しがりの日本人も出てくるかもしれない。
日本人はたいてい西部劇みたいな戦いは嫌いなはずだ。
力のあるものが勝つ、負け犬は死ぬだけ。
あんな動物的な人種を好きなわけがない。
とにかく、どっちかが勝つまで殴り合いはやめないわ、それを周りは止めもせず、見ているわ。
それを賭けの対象にして、2対1とか、3対1とかオッズを出して。
あんな人種は好きになれない。違います?日本人の皆さん。
本当のことを知れば、ビンラディンにもっと同情するかもしれない。
アメリカ人が、そんなに信用できますか?
私達には、武士道の血が流れている。
卑怯なことは許さない。(ただし、目的が忠のためなら、真珠湾攻撃はもちろん許される。)
原爆のような、人を人と思わないような残虐行為は許されない。(ただし、義の為ならば南京での多少の蛮行は許される。)
後、仁とか智とか礼とか勇とか、ありましたね。
今でも「武士に二言なし」とか「武士は食わねど高楊枝」とか「武士道は死ぬことと見つけたり」とか、私達の生き方に影響しそうな言葉が幾つも残っている。
差別語刈りの後は、こういった武士道刈りも必要かもしれない。
違うかな?
で、私は武士道を、本当はどう思っているのか?
うーん、わからん。
でも、自衛隊は武士であってほしいかな。それぐらいの気概がないと、パキスタンまでわざわざ行けないでしょう。
だって、日本人の誰も何しに行くのか、本当はよくわかっていないし、行かないといけないとも思っていないのだから。
寒い冬の夜、火の用心の夜回りに義理で参加するようなものですからね。
金だけ出して、自分は炬燵の中でテレビ見ているのは許されなくなった、ま、そういうことなんじゃないでしょうか。
御苦労様です。ま、帰って来たら熱燗で一杯でも、ネ。
本当に必要なら例え火の中、水の中、安部邦雄