さて、昨日に続いて聖徳太子の話。
実際にはノートパソコンの時間表示が狂っていたため、日付を越えてしまったのがちょっと残念。慌てるとろくなことがない。
それと訂正で、半迦思惟像は半跏思惟像が正しい。辞書で昨日は探しきれなかった。すみませんね。
弥勒菩薩を如意輪観音と呼ぶのは、中宮寺ではそういう風に伝承されてきたかららしい。
伝如意輪観音というのが正式とか。歴史の本では、相変わらず弥勒菩薩として紹介されている。
大仙古墳を伝仁徳陵古墳というようなものだろう。
40代になって古代史に目覚めたと言ったが、それまでは聖徳太子は学校で習った以上のことは何も知らなかった。
お札になった聖徳太子の像。童子2人を連れている掛け軸の絵である。
あの絵も、聖徳太子かどうかわからないらしいが、いずれにせよ後世の作だから、それ自体はどうでもよいことだと私は思う。
後、知識として知っていたのは、厩で生まれたから厩戸皇子と呼ばれていたとか、十七条の憲法を制定したとか、推古天皇の摂政だったとか、冠位十二階の制定、遣隋使の派遣、「日出るところの天子云々」という書簡を送ったことなどだろうか。
聖徳太子と後に呼ばれたぐらいだから、きっと立派な人だったんだろうなぐらいでとまっていたのが本当のところだった。
で、古代史に目覚めた私は今はどう思っているか?
聖徳太子って本当にいたの?である。
厩戸皇子あるいは豊耳聡皇子と呼ばれた皇子はいたのかもしれない。
古人大兄皇子がいたのはほぼ確かだから、そのパパである厩戸皇子がいたのも確かなような気がする。
ただ、みんなが思っているような聖徳太子なんか、本当にはいなかったのではないか、という疑問はどうしても残る。
当時の実力者は蘇我馬子である。
天皇家ではない。
今、私達が古代の天皇家として理解しているのは、天武天皇以降の天皇家の秩序である。
それ以前は、秩序は全然違う。
古事記や日本書紀に流れている天皇観は後世のものであるのは明らかだ。
奈良時代の中期にやっと完成した天皇観を、飛鳥時代も同じだったとはとても思えない。
この頃の話は疑えばきりがないことばかりだ。
奈良時代以前の天皇陵なんてわかったものではない。
天武・持統合同陵だとて、ついこの間まで間違っていたのだ。
古事記や日本書紀の天皇陵の比定なんて信用するほうがおかしい。
とにかく、学校で習ったことのほとんどが、真実かどうか全くわからないというのが、私の今の感想だ。
よくも、歴史の教科書にあんな揣摩憶測を歴史的事実のようにかけるものだと思う。
新しい歴史教科書を作る会の連中も馬鹿としかいいようがない。
神武天皇から歴史を始めるな。
昔話、フィクションとして覚えたい人は覚えればいいが、そこに日本人の精神的ルーツがあるなどというのは漫画そのものだ。
ちょっとは奈良の山の辺の道でも歩いてみればいい。
確かにここには古代の歴史があったということを実感するであろう。
しかし、絶対に神武天皇の説話など真実なわけはないと思うはずだ。
自分の足で歩く。歴史を学ぶものが心すべきことだ。
頭で歴史を作ろうとする愚か者・・それが新しい歴史を作る会(捏造する会)と言えば言いすぎだろうか。
ま、そういうことで、今日はこれぐらいで。
昔の天皇観が復古するのはちょっと怖い、安部邦雄