そんな気持ちになりませんか。
私は高校時代に何度もそうなりました。
無力感と言うか、自分だけではどうにもならない焦りとか。
フォーク・クルセダーズのヒット曲でもありましたね。
詩はサトー・ハチローさんでした。
白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いは ないだろうか
これは二番の歌詞。
限りないむなしさの救いを求める旅に、私はいつしか出ていました。
私の旅はまだ途中です。
その空しさを解く鍵にもまだ出会えてはいません。
結局出会わないままで私の現世の旅はおわってしまうのでしょうか。
それも又運命かもしれませんが。
私の心の旅に、いつもついてくるのは「もやもや」です。
何かもやもやしながら、夜を迎え、朝になり、そして又都会の中へと通って行きます。
この「もやもや」は何なのでしょうか?
単純化されない、それゆえに心に重い何かです。
複雑なままで、そのまま消化しきれない何かです。
私は、インターネットに接する中から、一つの摂理を見い出しています。
それは「重いか、軽いか」という一つのものさしで表されます。
重いものはインターネットではなかなか流通しません。
軽いものは、どこへでも簡単に飛んで行きます。
軽くすることは伝わることです。
重いままでは伝えることは至難の技です。
複雑と単純という風に言い換えてもいいかもしれません。
複雑なものは、自分ではなかなか整理しきれない。
単純なものは、簡単に記憶のファイルに収納することができる。
ただ複雑と単純の間には、ものさしが正確には存在しません。
で、私が考えたのが複雑=重い、単純=軽いというものさしです。
重いものを軽くすることがネットの基本だと、私は考えるようになったのです。
それゆえ、ソリューションは常にこの原理が適用されてなければいけない。
重いものをそのまま取り込んでいるようなソリューションはソリューションではないのです。
重いものを軽くする、軽くすれば簡単に流通する。
例えば、宇宙の複雑そうな原理をアインシュタインはE=mc2(二乗)いう単純な数式に置き換えることを発見しました。
その結果、原子力を取り出すことに成功するわけです。
それが原子爆弾になったり、原発になったりするわけですが、いずれにせよ、きわめて重いものが実に軽い形で処理できるようになったのです。
重いものを軽くする技術、それがITだと私は定義しています。
私にとって、重いものはだめで、それを軽く出来得ているかがものさしなのです。
ものさしがはっきりしない理屈は単なるたわ言だと私は思っています。
ま、このあたりの話はまだ生煮えなので、別に詳しく語ることにしましょう。
で、悲しくてやりきれないのである。
自分の中の重いものが少しも軽くなっていない。
その為の普遍的なソリューションも確実には獲得出来ていない。
限り無い空しさの救い、それはどこにある?
空しさのものさしはどこにある?
ふるさとの 道遠きかな 秋暮れぬ 磊
今日の私は何が言いたいのだろう、安部邦雄