メリークリスマス!
寒いクリスマス・イブでございますねえ。
さっきから手が冷たくて、キーが打てない。
ということで今日は休んだろ!思たんですが、昨日、今回は大学編をお送りします、ゆうたみたいやから、しゃあないので、我慢して書きます。
外は、やっぱり皆楽しそうですねえ。いいなあ。
::::::::::::::::::さて、今回は大学で学んだこと。
もちろん、経験的に学んだことではなく、授業を通じて学んだことです。
教養課程は、あまりこれといって覚えていることはありません。
何しろ、大学紛争とかその後遺症で、ほとんど授業に出なかったですから。
悔しい思い出ばかりが今も記憶に残っています。
大学の名物授業に、万葉集でおなじみの犬養孝先生の講義がありましたが、いかんせん、大教室で先生自体が米粒状態。
もう少し薫陶を受けたかったのですが、今となってはもう遅いですね。
クラス担任の先生も、日本史専攻で、当時「大化の改新はなかった」という著書を上梓。
なるほど、あれは単なる奪権闘争(クーデター)で、改新(革命)などというほどのものではなかったのか、と納得。
歴史なんか、所詮為政者の行動を合理化したものにすぎない、なんて理解が芽生えはじめたものでした。
今でも、私の中で価値を持ち続けているのは、専ら専攻課程の授業。
教育社会学で、「子供を扶養する義務がなくなれば、家族制度は崩壊する」というテーゼはとても興味深かったですね。
家族を成立せしめているのは、子を育てるという行為にあるのだそうです。
愛情なんていうものではない、へえ?そうなんだあ?。
大家族制度から核家族制度に変わって行ったのは、少子化することによって、育てる単位が小さくなっても維持できるからだそうです。
もちろん、都市化と文明化が少子化を生んだわけですから、都市社会が崩壊すれば、又家族制度は大きくなる可能性が出てくるということですね。
国が子供を管理育成するようになれば、家族制度は全く必要でなくなります。
「親はなくとも子は育つ」わけですし、人間は同質化社会ですから、実質的に親というものを皆持たなくなれば、親への愛情が満たされない為に精神的に病んだり、非行化したりすることもなくなるでしょう。
その時、担当の先生は言いました。
「家族制度は、そのうち崩壊するだろう。」
幸いなことに、まだそれは崩壊する気配を見せてはいませんが。
社会心理学の授業で「自明性」を学んだ時もちょっと興奮。
ここで使われた教材が「クレバーハンス(賢いハンス)」という馬の話でした。
およそ80年ほど前の、ドイツのできごとです。
クレバーハンスは、計算のできる馬として有名でした。
飼い主がいなくても、その馬は計算ができ、その答えを前足で叩くことによって出していました。
進化論真っ青です。
突然変異的に賢い馬が現われた、そこにいた人はみんなそう思いました。
そこへ現われたのが心理学者でした。
彼は、クレバーハンスに問題を出す時、そこにいた誰もが見えないように問題を出しました。
もちろん、本人も見えないようにです。
つまり、そこにいた人は誰も問題を知りませんし、それゆえ答えも知りません。
クレバーハンスは困ったような顔をしながら、前足をずっと叩き続けていたそうです。
馬は人々の顔に答えを求めていたのです。
人はその答えを知っています。
馬はそれに合わせようとしただけなのです。
自明性とは、こういった私達の自覚できないまま知らず知らずに陥る意識の穴なのです。
「素朴なドクサ(信念)たる世間知・暗黙知(自然的態度)は、自明であるがゆえに証明作業が省略され、その妥当性は検討されない。」(山根一郎『社会心理学における現象学アプローチの提議』)
自明性に対する無知が、いわゆるレッテル貼りという短絡性を産み出します。
そこには妥当性を検証するよりも、レッテルを貼ることによって、結果をショートカットすることに価値を見い出そうとする意志があります。
近頃の言論には、甚だこういったショートカットが横行しているように思えてなりません。
人々の中の自明性への無知、それを知ることができたのも大学の授業のおかげと思っています。
この話は、こういう欄で簡単に論議できることではありませんが、今の私の価値判断に強く影響を与えた概念として御理解いただければ幸いです。
又、長くなりました。
自明性の議論については、別の機会にもう一度させてください。
自明性って辞書には載っていないのですね、知らなかった、安部邦雄