話をややこしくして、相手の論点をそらすというレトリックがある。
官僚の答弁というのは、ほとんどこれである。
AはBではないか!
そう問いつめる質問者に対して、シレっとした態度で答える官僚。
AがBであるという先生の御指摘でございますが、AがAであるということを定義する時に若干の見解の相違がございます。
この見解の相違につきましては、只今、審議会の方で皆様のご討論を得ているところでございまして、その結論を待ちましてAが本当にAであるのかを検討させていただきたいと存じます。
又、AがBであるという先生の御指摘に関しましては、AがAであるというという答申がなされることが前提でございますが、先生の御提案も謙虚に受け止めながら、前向きに善処する次第でございますが、BがBであるということも同時に問題になるかと推察いたしますので、前段のAがAであるという検討の上で、又BがBであるという検討も審議会の場で検討するべきものではないかというのが、政府の見解ということでご了承いただきたいと存じております。
書いていて段々腹が立って来た。
AがBであるという、その単純なことを認めるに際してもこれだけの条件をつけることによって、AがストレートにBには結びつかないというイメージを作り上げているのである。
これはAがBであるということを認めてしまえば、BはCだから、AはCであるということを認めることになる。
それをさせまいとする為のレトリックなのである。
つまり、最初のテーゼを絶対的なものにさせまいという姑息な知恵なのだ。
抽象的な話なので、少し具体化しよう。
日本には非核三原則がある。
アメリカは、核を日本に持込んでいる。
これは非核三原則に抵触するので、今後アメリカに核を持込まないように要求する。
この論理は、普通に考えれば当然の事だ。
アメリカの核持ち込みを放置している国の責任を問われかねない。
そこで、責任を問われない為に官僚は何をするか。
日本とは、まず何を指すかでへ理屈をこねる。
日本の領域とはどこまでを指すかとか、日本の意志をアメリカがどこまで尊重しているかなどを語って、独立国日本の意志は常に貫徹されるのだ、などと宣う。
核三原則についても、アメリカはこれを最大限尊重している。それを書いたドキュメントも存在すると言う。
だから、アメリカは核等持込んではいない。
これで終わりである。
後の、理屈は前提が間違っているから、論議に値しないという。
いや、実際にはああだ、こうだ、と質問者は言う。
AはBだ、という質問者の前提を否定してしまっている以上、後の理屈は意味がなくなる。
BがCであろうと、AはBだと断定出来ないのだから、AがCという根拠等どこにもないではないか、と官僚は答える。
後は、質問者がいくらAはBだと証明しようとしても、その部分を常にブラックボックスの中に置いておけば、後は水掛け論になるだけだ。
官僚は、絶対に事態をシンプルにしない。
NGOを排除したのは宗男氏の指示だというのはわかっていても、決定したのは外務省だと宣う。
じゃ、悪いのは外務省かと聞くと、大西氏が朝日新聞で言ったことが、政府との信頼関係をぶちこわしたから、出席を遠慮してほしいと要望した。
じゃ、悪いのは大西氏かというと、そうではなくて、新聞の載った記事が不穏当な表現だったから等という。
朝日新聞が悪いのかと聞くと、それは言論の自由ですから、政府としてどうのこうの言う立場ではない、と来る。
じゃ、一体誰が悪いのだとなると、誰が悪いとか、誰が責任があるとかではなくて、今回はこういう結論を出さざるを得なかっただけであり、今後はこういうことにも弾力的に対応して行きたいので、ご了解いただきたいで終わり。
正直、国民は何がなんだかわからない。
これで、次はどうなるのかというと、一度除外したNGOはそれが実績となり、二度と招待されることはない。
ヌエ的とは、まさしくこのことだ。
こういうレトリック、誰が考えついたのだろう。
結局、実質的に官僚の勝ちだ。
反省しているとか、遺憾に思うとか言いながら、その問題提起した勢力は二度と論議の場に呼ばれない。
シンプルに考えれば、今回の宗男騒動にしても、悪いのは宗男氏であり、外務省だ。
しかし、外務省の役人は更迭されても、先ほどの論理は相変わらず生きて行くことだろう。
何ともはや、なのだが。
さて、今回は書いている私も途中で何が何だかわからなくなった。
国会中継を見ていてイライラするのは、結局こういうわけのわからない論理構造に起因していることは間違いなかろう。
しかし、こんなレトリック、学校では教えていないのに、彼等は誰から習うのだろうか?
学校教育の無力さをまた強く感じるこの頃である。
こんなレトリックをもてあそぶ仲間がいたら、絶対だれも友だちにしないはず、人への愛情が足りない者しか、高級官僚にはなれないということか、安部邦雄