ボスザルはボスであるから尊い。
何らかの理由でその権威を失った時、ボスザルはどこにも居場所がなくなってしまう。
どのような仕種も、かっては権威の象徴だった。
だが、ボスでなくなったサルにとって、どのような仕種も敗残者の表象でしかない。
ものの見事にオーラは消え、青ざめて小さく震えるサルを、誰も振り向こうとはしなくなる。
目を合わせることすら、不潔なもののように思えてくるようだ。
誰も声をかけず、できれば早く消えてほしいと望んでいる。
水に溺れた犬は叩け!と魯迅は言った。
そうしないと、手負いの犬は恨みを身体の中で増幅し、いつか捲土重来で反撃して来ないともかぎらない。
面倒だから、殺してしまえ、ということなのかもしれない。
でも、水に溺れた犬を叩くのは、ひょっとしたら、かっての権威を、潔い死をもたらすことによって守ってあげようという惻隠の情と言えないこともないような。
今、辞職を語られる三人の政治家、かっての栄光が華々しいだけ、その姿は哀れとしか言い様がない。
政治家の話は横に置こう。
ロビン・ウィリアムズの「今を生きる」という映画を思い出す。
伝統的な「詩」の解釈の世界を、自由な発想でもって思いきり破壊し、その再構築を生徒に迫る、国語教師の話だ。
だが、その自由な教育に感化された生徒が、自己の中で詩の再構築をはかるが、当然のように伝統的な親の権威と衝突。
自分の世界に殉ずることを選択した彼は、結局自殺に追い込まれてしまう。
では、彼を死に追いやったのは誰だ?と犯人探しが始まり、ロビン・ウィリアムズが死をそそのかした首謀者であるということになる。
悪いのは彼であり、彼が行った自由な教育なのだ。
彼は教師を罷免される。
そして、よかれと思ってした彼の教育が、思いがけず生徒を殺してしまったということに罪悪感を感じる彼。
悄然として、教室を去ろうとする彼に、教え子達がとった行動とは・・・。
私は、この場面、泣けて泣けてしかたがなかった。
生徒達がそんな行動をしたところで、何か事態が好転するわけでも何でもない。
ロビン・ウィリアムズの立場が強くなるわけでも、かっての権威が戻るわけでもない。
でも、1つだけ言える。
教師が拭いきれない罪悪感を、彼等生徒達が共有してくれるということなのだ。
自分はただひとり寂しく、罪悪感を抱えて学園を去るのではない。
それを、少しでも共有しようとしてくれる生徒達がいる。
それこそ、神の救いなのかもしれない。
本当に大事なことは、目にはみえないんだよ。
「星の王子様」の狐の言葉だ。
今の世の中、情報はふんだんにあり、映像もふんだんにある。
でも、本当に大事なことは、そんなあふれかえった情報の中にはありえない。
目に見えない、耳に聞こえない、五感では知り得ない、本当に大事なことって、きっとそういうものなんだよ、と狐は言っていた。
又、政治の世界に戻る。
本当に大事なこと、それはテレビや新聞では伝えないものの中に、きっとあるんだろうな。
それって、何なんだろうねえ?
中途半端な優しさは、ただ残酷なだけだと、ある人は言った、さよならだけが人生だと、ある人は言った、かって権威の中に居たのかもしれない私は、ただ呆然と暮れなずむ西の空を見つめている、安部邦雄